Hunnigan, Sloane and Minchin

グランドミュージカルとか映画とか

Under the name of love 「グランドホテル」に泊まる。

ミュージカル「グランドホテル」
に、すっかりやられてました。
クラシカルな楽曲に舞台的な濃い演出。
20年代ものだしクラシカルな作品なのかーとりあえず…と思って見たらとんでもない作品で。

一度目で頭吹っ飛ばされて二度リピート。
レミゼ以外でこんなことになるとは…。


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男爵が好きです。
どの人物も愛おしいんですけど、特に。

貴族たる矜持を持ってはいるがとても保てる状況じゃない、ホテルから出ることは出来ずただ”男爵”と呼ばれるままに振る舞う。
でもその表面の洒脱さや遊び心のチャーミングさがたまらないんです。
こんな状況で「勇気を試すゲーム」ってあなた…。
6ヶ月の宿泊費滞納を支配人に咎められての返事に「7ヶ月だ」。
適当に口説いたフレムシェンを追って女子トイレ訪問。
真実なんてどこにもないその人柄に惹かれずにいられない…。
ずるいよね。
けども中盤彼は愛を知ります。

運転手のナリをしたギャングに金を返すために盗みを働けと唆され
忍び込んだ部屋でエリザヴェータ・グルシンスカヤと出会う。
嘘なのか本当なのか愛を告白。
しわだらけの顔を恥じらうグルシンスカヤにそこに人生をが刻まれていると返す。
「僕はもう人生を感じさせない人間に興味はない」
そして変わる。
嘘がつけなくなる。


愛は人を照らす。
揺るぎなくただまっすぐに。

 

彼女に言い寄る時まだ垣間見える打算なのか本意なのかわからない性質も魅力には間違いなかった。

でも愛を得た彼は嘘をつけなくなる。

首飾りを盗もうとしたことを打ち明けて、ウィーンへ行く約束を交わす。

その足がかりである金なのにオットーの財布を盗むことも出来なくなる。
盗人でない、誇りある自分としてホテルから旅立つ決心をする。

 


そんな男爵との大きな対比を描いていたのがプライジングなのだと思います。
元々は嘘のつけない家族を愛する小さな男。
経営の落ち込みきった会社のために株主に嘘をつき、やはり変わる。
嘘を身に付ければ愛に照らされることはもう出来ません。
指輪を外し秘書として雇ったフレムシェンを襲い、
抵抗するため家族のことを口に出す彼女を恫喝する。
真実を晒すことが出来なくなったプライジング。
これから踏み出す嘘の世界に怯えるように。


愛が嘘を、嘘が愛を追いかけ回転扉のように巡る。

誰かに感情移入するでもなくその扉をただ見つめていると
現れる度に登場人物がそっと心に触れて行く。

エリザヴェータを見つめ続けるラファエラ。
明るい人生を探しに来て暗い側面を垣間見せる男爵を許したオットー。
愛を引き受けてつく2人の嘘も印象的です。
また未来を夢見て暗い鏡を抜け出そうとしたフレムシェン、
栄光の過去を引きずり衰えに怯えるエリザヴェータも対比だったのかな。

ダンス一つ一つも素敵だった。
特に最後の男爵とオットーのチャールストンの弾けるような幸福感。
人生のほんの一瞬、同じ場所で美しい瞬間にを共有した人々。

気付いたら誰も彼も愛おしくどこまでも引き込まれ結末の別れに心を締め付けられる。
あまりにも長い死の瞬間の美しいこと…。
そしてホテルの外に踏み出す面々の晴れやかなこと。


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2バージョンあった中RED基準で書いてみました。
初回に見たという刷り込みもありますが、
人生讃歌でおとぎ話な雰囲気でありますがその美しさにやられてしまったもので。

緑も大枠は変わらないながら、あくまでこの豪奢なホテルの出来事である、
という演出は面白く見れました。
最初のDEATHの登場時とグルシンスカヤの部屋で流れるナチス演説のラジオ音は
ものものしい雰囲気でホテルの外に吹き荒れる砂嵐のよう。
彼らが愛に目覚めようが人生が見つかろうがあくまで今は1928年であり従業員たちもまた宿泊客を翻弄する世相の一部なんですよね。最後の略奪にギャングの運転手までも遭っていたのに驚きました。あと男爵の亡霊。亡霊なんだろうか。

時代を感じるといえば経営難の会社社長が美しくも時代遅れな貴族を撃ち殺すというのは
古き良き時代の死を感じさせる描写とも思えるけどどうなんでしょ。今回の演出としてはあまり関係強調してはいない様子でしたけども。
32年版の映画もできれば原作もあたってみたいです。

とにかく彼らの人生に立ち会えたことが幸せに感じる。
世界のどこかで常にかかっていてほしいのはこういう作品だなぁ。
最後に、映像、音源、再演どれでもいいから早くお願いしますほんとに。