Hunnigan, Sloane and Minchin

グランドミュージカルとか映画とか

ROOTS/ルーツ 2016年版

今年話題になったアニメ映画に、南部の唄という作品がありました。
と言っても公開されたわけでなく、ズートピアのヒットと共に掘り起こされ話題になったディズニーの封印作品、負の歴史です。
インターネッツでざっくり調べられるところによると「白人の少年と黒人のおじさんの心の交流」が主題で、そのおじさんの話す寓話に出てくるのがこの度ズートピアが主役の二人を重ねたと思しきウサギとキツネ、だそうです。
私は家にあったビデオで見てたハズなんですけど、全ッ然覚えていないんですよね…子供には退屈だったのかドラマパートは特に。
封印された理由は「当時(19世紀後半)の社会において黒人がこのような友好的な扱いを受けていることはありえない」という批判があったこと。「そういうものなのか」というのが知った当初の印象です。ただディズニー側もこれを認めているというわけで、複雑な社会だなぁと。そう思うばかりだったんですが、さて。
 

クンタキンテって聞いたことある?

私はなかった。

この夏CSヒストリーチャンネルにて「ROOTS/ルーツ 2016年版」が放送されました。

1977年に制作され世界中でブームを巻き起こしたドラマシリーズで、日本でも放送され大ブームに。日本でルーツという外来語が使われるようになったのはこの作品があってからだそうです。

この辺の経緯は今回のリメイク版放送で知りました。

放送を知った母が大喜びで「クンタキンテ、クンタキンテ」と謎の呪文を唱えだしたので聞きだしたらそういうことだったので見てみることに。これが放置してたブログに長文を書くほどの経験になってしまいまして。

 

以下あらすじです。

 
お話はアフリカに住むマンディンカ族の少年クンタキンテが別の村に逆恨みされ白人に奴隷として売られるところから始まります。その後アメリカの農場に買われ屈辱の中つけられたトビーという名を受け入れるまでが第1話。第2話ではクンタキンテは結婚し生まれた娘キジーが農場主の娘の遊び相手として育ちながら父に戦士の教えを授けられる姿が、第3話では、キジーの子チキン・ジョージがその父であり農場主のトム・リーに許されて闘鶏師となり自由を買うため稼ぐ日々、そして海を渡ることになるまでが描かれ、やがて帰還を果たし家族と再会するも打ち解けない息子と南北戦争を乗り越え分かり合い、クンタキンテの存在を語り継いで行くことを決意する第4話でこのお話は終わります。
 
ってネタバレ抑えて書いてみたけどネタバレしてても良ければ公式読んだ方が早いね。
ヒストリーチャンネルの特設サイト気合入ってます。

 
クンタキンテが主役の序盤はアフリカで父母に、戦士たちに教えを授けられる丹念な描写から始まり、その後奴隷として生きる、自由を奪われることの凄惨さを映像でもってありありと伝え、第3・4話のチキン・ジョージの物語では生まれついて奴隷であることとそういう存在を抱える白人社会の歪みをこれでもかと見せつけてきます。
南北戦争の終わった日、農場で奴隷たちが立ち尽くすシーン。もう奴隷ではないということに戸惑う人々にもう涙が止まらないんですよ。彼らが奴隷でなくなったからと言って、帰る場所は別にないということに気付いたら。クンタキンテは既に伝説で、でも彼らを見ている私達はクンタキンテの悲願を知っている。
 

作中子供が生まれるたび夜空へ向け繰り返される祈りの言葉があります。

「お前より偉大なものはあれしかない」
人は生まれた時から尊重されるべきである、その生い立ちも祖先も全て含めて。だから世代を超えるほど長い時間それを踏み躙り続けたこの時代を忘れることは許されない。
語らなければ改竄され忘れ去られる。南部の唄は1880年。ROOTSの最後から十数年たった時代の話になりますが、この作品でも奴隷解放が全てを変えたわけでないことはきちんと見せて終わっています。全4話完走後にその封印理由を思い出したら、ディズニーが認めた失態がどういうものか以前よりクリアに理解出来たように思いました。奪っていた側が「良き面もあった」と言うことがどれだけの欺瞞か。このドラマにはメイド扱いの奴隷が「きれいな服で働けているからまだいい」なんて言うシーンはありません。あるのはいつ人間扱いされなくなるか、信用しても裏切られるという白人への不信だけ。
 

このドラマに登場する白人は基本的にただの搾取者です。ときたま優しく接するような人もいますが、それはその時奴隷が自分の求める態度を取っていたから。バイオリン弾きの奴隷フィドラーを気に入っていた奥様も、キジーを友達という役割にしたお嬢さんもそう。農場で妊婦を働かせるなと言った医者は知識があったから、彼女を長持ちさせたかっただけ。1810年代に現れた奴隷反対論者もそういう主義者だっただけ。黒人に人間として向き合うような優しい人は第2話まで一切現れません。

でもこの白人から省いた人間性を一身に持たされた男が第3話で現れます。トム・リー。人間性の、どうしようもなく暗い面を持たされて。 

 

その親子に、愛はあった

トム・リーはアイルランドで生まれ育ち11歳で家を出て闘鶏で金を稼ぎアメリカで農地を持つまでになった人物で、妻との間に子はおらず売られてきたキジーに手を出して子供を産ませます。その子ジョージには奴隷ではあるけれどどこか愛着を見せ、闘鶏師として育てることを許す。しかし奴隷は奴隷でしかない。1832年の大きな事件を境にジョージはそれを思い知り距離をおきます。
信用すべき場においても、他の白人を前に「俺の子だ」とは言えない。アイルランド系移民で賭博で成り上がった生い立ちの劣等感を隠せないまま下流ではない白人でいるために奴隷に当たるしかない、どこまでも卑劣で小さい男。
 
第4話にて最後にトム・リーとチキンジョージが再会する時、やはりジョージへの愛情を示します。あいも変わらず傲慢さを引きずったまま。

 

この男に愛はあったか。あったと言えます。
では、これはそんな時代にも愛はあったことを伝える物語か。違います。 

 

ジョージへの愛は表明できなかった。キジーへの愛は受け取られなかった。
なぜそうなってしまったか。彼らが奴隷だったから。奴隷制があったから。トム・リーが、いや社会が奴隷制に浸かることをやめられなかったから。
トム・リーとジョージの歪な絆を描いた第3話で語られたのは、階級制による差別ががいかに人が人として自然な形で愛を享受する機会をこの男から奪ってしまったかという事実です。「こんな中にも愛はあった」なんてものじゃない。
そしてその愛を正しい形へ戻し、そして祖先を取り戻しに向かう姿を描いたのが第4話でしょう。そう思えば一度帰還しまた旅立ち、そして本当の再会をするという一見回りくどいスペクタクルも素晴らしい流れです。
 
では、トム・リーは被害者なのか。んなわけねー。あの最期は報いに他ならない。それまでの旦那たちに持たされることもなかった。
最後のやりとりの中ジョージに唾棄される「イギリスに行かせていい暮らしさせてやった」というセリフにも抉られました。安易な視聴者の考える「当時」などとっくに見透かされている。この作品は言い訳を許しません。唯一人間性を与えられたこの白人に感情移入し擁護すれば返り討ちにされる。彼には加害者になりうる誰しもを込められていたようで苦いです。
 
しかしこのトム・リーにこんなに文字数を割かずにいられないのは彼を演じたジョナサン・リース=マイヤーズの演技の素晴らしさもあるでしょう。思い返すと常に泣いた後みたいな顔をしているんだねトム・リーは。
この日本放送向けのインタビューが本当に素晴らしいので貼っておきます。

日本は世界的にもかなり特異な国です。自国の文化を出発点まで遡ることができる国です。しかも外部とは隔離された状態でした。だから日本の視聴者の皆さんは、この話を客観的に見ることができると思います。奴隷制とは関わりを持ったことがありませんから。その代わり、日本には大名や将軍が人々の生活を全て決め、社会的にも閉塞感がありました。日本人もそのように抑圧された中で生活することに対する理解は共通に持っているはずです。

 

どのような徳を積んだらこんな発言が…と思ったのですが、彼にあるのは間違いなく知識ですね。素晴らしいことです。

(同時に日本版の声優さんへのインタビューもあるのですが正直読まなくていいです。)*1

 

 というわけで見てほしいんですが。

一応、開始前に暴力の描写に関して注意があります。時代を正確に描くためというおなじみのアレです。しかし性暴力表現は直接描写は最低限に避けておりそれ自体が娯楽化されないよう現代的な心遣いを感じます。逆に全体的にゴア表現はしっかりと入りかなりエグい場面もあるのですが、こちらはきちんと画面に入れておくことを大切にしているように思えました。とはいえ1、2話目までは色彩をかなり落として表現して、衝撃を抑えているのが映像の扱い方として面白い。大変見やすくて助かりました。3話からは一方的な描写が減る分決闘とか真っ赤っかなんですけど。 これでは地上波放送はキツかろうってレベルです。でもこれらをおしてでも地上波放送してくれないかなと。

2016年、こんな作品が必要なことも明白な世の中です。77年版へのノスタルジーを必要としない形で作られた以上ちゃんと見られてほしいなと。

 

それから最後になりますけど、当初期待していた19世紀ものの映像的な楽しみ方はしっかり出来る作品です。

まずアフリカの暮らしをしっかりと描いて始まるのが大作たるところですが、描かれる数年ごとのアメリカの農園経営、銃、衣装、暮らしの移り変わりがあり、更に闘鶏や決闘の作法など他ではあんまり見られない要素も多いです。独立戦争、ナット・ターナーの反乱にピンカートンと南北戦争、通しでアメリカ史を見られるのもよいですね。先住民は薄めかな。スペクタクル的でもあり*2こういう点に興味があれば見られる作品だと思います。是非。

 

 

*1:ドラマの受け取り方はそれぞれかと思うのですが、この作品の強固なメッセージ性を薄めて、全く言葉を選ぶ気配もなく「炎上」とか「青い目で金髪にもなれる」という発言があったことは、本当に残念です。

*2:いやまさかウエスタンでおなじみの”正当防衛”で物語がシメられるなんて思わなかったよね

Under the name of love 「グランドホテル」に泊まる。

ミュージカル「グランドホテル」
に、すっかりやられてました。
クラシカルな楽曲に舞台的な濃い演出。
20年代ものだしクラシカルな作品なのかーとりあえず…と思って見たらとんでもない作品で。

一度目で頭吹っ飛ばされて二度リピート。
レミゼ以外でこんなことになるとは…。


++++++++++

男爵が好きです。
どの人物も愛おしいんですけど、特に。

貴族たる矜持を持ってはいるがとても保てる状況じゃない、ホテルから出ることは出来ずただ”男爵”と呼ばれるままに振る舞う。
でもその表面の洒脱さや遊び心のチャーミングさがたまらないんです。
こんな状況で「勇気を試すゲーム」ってあなた…。
6ヶ月の宿泊費滞納を支配人に咎められての返事に「7ヶ月だ」。
適当に口説いたフレムシェンを追って女子トイレ訪問。
真実なんてどこにもないその人柄に惹かれずにいられない…。
ずるいよね。
けども中盤彼は愛を知ります。

運転手のナリをしたギャングに金を返すために盗みを働けと唆され
忍び込んだ部屋でエリザヴェータ・グルシンスカヤと出会う。
嘘なのか本当なのか愛を告白。
しわだらけの顔を恥じらうグルシンスカヤにそこに人生をが刻まれていると返す。
「僕はもう人生を感じさせない人間に興味はない」
そして変わる。
嘘がつけなくなる。


愛は人を照らす。
揺るぎなくただまっすぐに。

 

彼女に言い寄る時まだ垣間見える打算なのか本意なのかわからない性質も魅力には間違いなかった。

でも愛を得た彼は嘘をつけなくなる。

首飾りを盗もうとしたことを打ち明けて、ウィーンへ行く約束を交わす。

その足がかりである金なのにオットーの財布を盗むことも出来なくなる。
盗人でない、誇りある自分としてホテルから旅立つ決心をする。

 


そんな男爵との大きな対比を描いていたのがプライジングなのだと思います。
元々は嘘のつけない家族を愛する小さな男。
経営の落ち込みきった会社のために株主に嘘をつき、やはり変わる。
嘘を身に付ければ愛に照らされることはもう出来ません。
指輪を外し秘書として雇ったフレムシェンを襲い、
抵抗するため家族のことを口に出す彼女を恫喝する。
真実を晒すことが出来なくなったプライジング。
これから踏み出す嘘の世界に怯えるように。


愛が嘘を、嘘が愛を追いかけ回転扉のように巡る。

誰かに感情移入するでもなくその扉をただ見つめていると
現れる度に登場人物がそっと心に触れて行く。

エリザヴェータを見つめ続けるラファエラ。
明るい人生を探しに来て暗い側面を垣間見せる男爵を許したオットー。
愛を引き受けてつく2人の嘘も印象的です。
また未来を夢見て暗い鏡を抜け出そうとしたフレムシェン、
栄光の過去を引きずり衰えに怯えるエリザヴェータも対比だったのかな。

ダンス一つ一つも素敵だった。
特に最後の男爵とオットーのチャールストンの弾けるような幸福感。
人生のほんの一瞬、同じ場所で美しい瞬間にを共有した人々。

気付いたら誰も彼も愛おしくどこまでも引き込まれ結末の別れに心を締め付けられる。
あまりにも長い死の瞬間の美しいこと…。
そしてホテルの外に踏み出す面々の晴れやかなこと。


++++++++++

2バージョンあった中RED基準で書いてみました。
初回に見たという刷り込みもありますが、
人生讃歌でおとぎ話な雰囲気でありますがその美しさにやられてしまったもので。

緑も大枠は変わらないながら、あくまでこの豪奢なホテルの出来事である、
という演出は面白く見れました。
最初のDEATHの登場時とグルシンスカヤの部屋で流れるナチス演説のラジオ音は
ものものしい雰囲気でホテルの外に吹き荒れる砂嵐のよう。
彼らが愛に目覚めようが人生が見つかろうがあくまで今は1928年であり従業員たちもまた宿泊客を翻弄する世相の一部なんですよね。最後の略奪にギャングの運転手までも遭っていたのに驚きました。あと男爵の亡霊。亡霊なんだろうか。

時代を感じるといえば経営難の会社社長が美しくも時代遅れな貴族を撃ち殺すというのは
古き良き時代の死を感じさせる描写とも思えるけどどうなんでしょ。今回の演出としてはあまり関係強調してはいない様子でしたけども。
32年版の映画もできれば原作もあたってみたいです。

とにかく彼らの人生に立ち会えたことが幸せに感じる。
世界のどこかで常にかかっていてほしいのはこういう作品だなぁ。
最後に、映像、音源、再演どれでもいいから早くお願いしますほんとに。